鉄道聯隊があった街
かつて日本陸軍には鉄道聯隊が存在した。この聯隊は戦地での鉄道敷設や運行、敵の鉄路の破壊工作に従事するのものであり、義和団事件から日露戦争、日中戦争、太平洋戦争で活躍した。拠点が置かれた千葉市や津田沼(習志野)周辺には現在も遺構が存在している。今回は鉄道第一聯隊が置かれた千葉市周辺で遺構を巡った記録である。
1.千葉公園で作業場の面影を探す
今や市民の憩いの場とされている千葉公園もかつては鉄道第一聯隊の作業場、言わば演習場であった。公園の敷地内には当時、演習で使われたトンネルや橋脚が現存している。
演習用トンネル
山も何もない場所にポツンとトンネルがある。かなりシュールな光景だが、立派な遺構である。千葉市中央・稲毛公園緑地事務所の脇にあるこのトンネルはコンクリート製。トンネル工事演習で使われていたようだ。事務所内の駐車場に存在しているが、正門が開いている時間帯はありがたいことに自由に見学ができるようになっている。
演習用橋脚
公園内を少し行くと部活動の高校生たちが運動している広場に出た。彼ら彼女たちが元気に走り回る広場の近くにコンクリート製の橋脚が突っ立っている。これも演習用に建てられたものであるらしい。そばを通りかかる人々はその「物体」を気に留める様子はなく不思議な空間が広がっていた。
この橋脚の後ろの斜面にはコンクリート製の物体が存在している。これもまた演習用橋脚か何かの遺構であろうか。案内板などは見当たらなかった。
ウインチ台跡
初夏には市の花である大賀ハス*1が咲き誇る綿打池のほとりにいかにもなコンクリート製の物体がある。これはウインチ*2台の跡であるらしい。今ではベンチ代わりになっているらしく、腰かけ綿打池を眺めている人がいた。
荒木山
荒木山とあるが小高い丘である。かつては鉄道聯隊の喇叭手の練習場所であったため「喇叭山」と呼ばれていた。その後、大陸で殉職した荒木克業大尉*3を悼み、昭和8年に銅像が建立。喇叭山は公園として整備され「荒木山」と呼ばれるようになったという。英雄の銅像も戦争末期に供出され姿を消し、今では名前を残すのみである。
公園周辺の陸軍境界石標
かつて民間地と軍用地の境界には境界石標が立てられていた。これらの石標はかなり頑丈で引っこ抜くことが難しいらしく現在でも残っていることが多い。例に漏れず千葉公園周辺にも境界石標らしきものが多く存在しており、中には「陸軍」と彫られているのが確認できるものある。
2.轟町の材料廠と線路跡
千葉公園がある中央区弁天と隣接する稲毛区轟町には現在、県立千葉東高校や千葉経済大学とその付属中学・高校があり文教地区としての性格が強い。しかし、かつては陸軍鉄道聯隊の材料廠と陸軍兵器補給廠が存在していた。町名の由来も""戦車や軍靴の音が轟いていたから""であり、何ともミリタリー色強めな土地であったことがわかる。当時の鉄道聯隊の演習線は生活道路に、材料廠の倉庫は千葉経済大学に現存しており、わずかながら「軍郷」であった面影を今に残している。
材料廠
材料廠は現在、千葉経済大学の敷地内にある。訪問当日は大学正門に守衛がおらず、大学の庶務課に許可を得て担当者さんの案内のもと入校した。1908年(明治41年)に建設された煉瓦造りの材料廠は大正時代からは陸軍の兵器庫としても活用され、戦後は国鉄のレールセンターにもなった。明治期の煉瓦建築の技法が窺える貴重な建造物であるらしい。
担当者さん曰く、東日本大震災以前は内部見学も可能であったらしいが耐震強度の問題で現在はおこなっていない。材料廠の周りでは野良猫が日向ぼっこをしており、彼らの住処になっているようだった。
生活道路として残る演習線跡
材料廠や兵器補給廠が存在した轟町には演習線やそれらの引き込み線の跡が生活道路になっている箇所がある。特にかつての材料廠への引き込み線は戦後に国鉄の千葉レールセンターへ向かう専用線として使われていたこともあり、その線形を色濃く残している。
3.演習線の面影を探して
かつて鉄道聯隊には習志野線・松戸線・下志津線・八街線の4つの演習線が存在した。演習目的の他には各地域の軍郷を結び、軍の物資輸送も担っていたらしい。千葉公園にほど近い作草部にはかつて習志野線と下志津線があった。下志津線の跡は道路として活用されている。
習志野線と下志津線の分岐点の謎
作草部郵便局脇の狭隘路を進むと若葉公園という小さな公園が表れ、道が二手に分かれている。生協の宅配トラックがノロノロと狭い道を抜けていく。軽便とはいえ機関車が走っていたのだろうか?この分かれ道がかつての分岐点だと予想を立てていたが、今昔マップ*4や国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス*5で確認するとズレがあることに気が付いた。道路の分岐点が演習線の分岐点ではないようだ。演習線の分岐点はこの地点より作草部郵便局側に80m手前の地点である可能性が高い。再訪確定である。
習志野線は鉄道第一聯隊が置かれた千葉から第二聯隊が置かれた津田沼までを結び、下志津線は同じく千葉から「陸軍野戦砲兵学校」や「陸軍野戦重砲兵第4聯隊」が置かれた四街道までを「下志津陸軍飛行学校(現在の陸上自衛隊下志津駐屯地)」があった下志津原(千葉市若葉区)を経由して結んでいた。
下志津線を途中まで辿る
モノレールが頭上を走る国道126号線の作草部1丁目交差点に出ると比較的交通量が多く、路線バスも通る道路が伸びている。この道は下志津駐屯地付近まで続いており、かつての演習線を道路に転用したことがわかる。勾配が少ないのも特徴的だ。また作草部には戦中まで陸軍歩兵学校や陸軍気球聯隊が置かれていた。最近まで気球聯隊の格納庫が現存していたが2020年末に解体され今は更地になっている。
この道沿いでは気球聯隊の旧第二格納庫があった場所近くの交差点と千葉内陸バスの京葉道路際バス停(千草台団地付近)近くの二箇所で境界石標を確認することができた。正直なところ四街道まで歩く体力は残されていなかったのでこれから鉄道聯隊の各演習線を巡る中で再訪したい。
4.終わりに
今回は鉄道第一聯隊が置かれた千葉市周辺の遺構を巡ったが、戦後75年以上経った現在もわずかながら面影が残っていた。しかし、旧気球聯隊第二格納庫のような例もあるので油断はできない。例の分岐点も含め、鉄道第二聯隊の遺構や各演習線の跡も近いうちに巡りたいと思う。
千葉経済大学さんには突然の訪問にも親切に対応していただき感謝しております。
鉄道聯隊があった街(終)
*1:千葉市民なら誰でも知っているであろう大賀一郎博士が発掘した古代ハス。開花から4日で散ってしまう。ちはなちゃんゼリーでも有名。
*2:巻き上げ機
*3:鉄道第一聯隊に所属した工兵中尉、殉職後大尉。戦中期の英雄。荒木克業 - Wikipedia
*4:今昔マップ:http://ktgis.net/kjmapw/
*5:地図・空中写真閲覧サービス:https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
「軍郷」柏探訪
戦前から戦中にかけて現在の柏市一帯には陸軍柏飛行場(東部第105部隊)をはじめ高射砲第2聯隊など多くの日本陸軍関連施設が存在する「軍郷」*1であった。今回は「軍郷」柏の旧日本陸軍の遺構を探訪した記録である。(2020年12月18日実施)
1.旧第4航空教育隊営門
梅林第四公園(柏市高田)には旧陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)の営門が保存されている。この隊は十余二、高田の両地域にまたがる形で置かれており、航空部隊に配属される兵士の訓練、教育がおこなわれていた。保存されている門柱は現在の梅林第3公園(柏市十余二)付近から移設されたものである。
2.旧東部105部隊営門
柏警察署高田原交番(柏市十余二)付近にかつての柏陸軍飛行場(東部105部隊)の兵営施設の営門が当時のまま存在している。1938年に竣工した陸軍柏飛行場は帝都防空用の飛行場として建設され、立川陸軍飛行場から移転してきた陸軍飛行第五戦隊をはじめ様々な戦闘部隊が展開した。本土へのB-29による空襲が激化した1944年以降は防空戦闘任務を主体とする部隊*2が展開した。
2車線分ある道幅は営門跡でほぼ1車線分になっており車はすれ違いができない。交通量も多く、よく現在まで残されてきたなと感じた。
また、この営門跡からほど近くの高齢者向け介護施設の敷地内には旧弾薬庫*3が2棟現存しており、県道47号線からその様子をうかがうことができる。
3.掩体壕跡と東誘導路跡
柏飛行場には軍用機を敵機からの攻撃から守るための掩体壕が79基設置されていたとされる。それら全てが屋根が無い土手を築いたのみの「無蓋掩体壕」であった。東、西、北と敷かれていた各誘導路に掩体壕があったが、現存しているのは東誘導路に設置されていたもの(2基)のみである。そのうちの1基がこんぶくろ池自然博物公園(柏市十余二)内に存在している。
かつては現在よりも高く築かれていたのだろうか。軍用機を攻撃から守るには心許ない高さに感じられた。
また、この掩体壕跡の近くにはかつての東誘導路が生活路として現存している。
4.ロケット戦闘機「秋水」燃料庫跡
太平洋戦争末期、高高度を飛行するB-29を迎撃するため同盟国ドイツのメッサーシュミット社の技術を基にロケット戦闘機「秋水」が開発された。なお燃料には高濃度過酸化水素水や水化ヒドラジンなどの""劇物""が用いられていた。
柏飛行場があった十余二から約2km離れた花野井地区にそれら燃料を保管するために建設された燃料庫が現存している。*4
法面にアーチ型のコンクリート面が露わになっていた。また、この入口跡の近くの畑には地下にあったとされる燃料庫の通気孔が現存している。
この他にも花野井地区には地下だけではなく、地上に剥き出しになっている燃料庫跡も存在している。一帯は住宅等の私有地だが燃料庫跡の区域のみ国有地であった。住宅地に残る燃料庫跡はどこか異様な雰囲気を醸し出していた。
5.旧高射砲第2聯隊営門と旧照空予習室及び測遠器訓練所
柏市根戸周辺は日本陸軍の高射砲第2聯隊が置かれ、柏飛行場と共に防空任務の拠点となった。高野台児童公園には高射砲第2聯隊の営門であった門柱が移設、保存されている。
この他にも根戸には旧高射砲聯隊で照空予習室及測遠器訓練所として活用されていた建築物が現存している。この建築物は2009年まで柏市西部消防署根戸分署として活用されており、当初は軍馬の食糧庫(馬糧庫)だったと推測されていた。
この型の建築物は昭和10年代前半に国内に6ヶ所、朝鮮半島に1ヶ所建設された。現存しているのは柏市と兵庫県加古川市のみである。また、起重機(外付けエレベーター)の支柱が残っているのは柏市根戸の建築物のみとなっている。保存の要望は多いものの老朽化のため取り壊しが決定している。
「軍郷」柏探訪(終)
空港までは歩かない 後編
2020年9月18日に東京モノレールの昭和島駅から天空橋駅の区間を徒歩で巡った。今回は前回の後編である。
・前編はこちら
sakekopepan.hatenadiary.com
1.穴守稲荷神社と稲荷橋
羽田可動橋がある大森から東糀谷を経由し羽田に入る。今や「空の玄関口」としてのイメージが先行するが、昔は漁業や穴守稲荷神社の門前町として栄えていたという。
かつて穴守稲荷神社は羽田の干拓地域(鈴木新田)に存在した羽田穴守町(海老取川東部)に鎮座していた。しかし戦後、GHQによって羽田空港(当時の羽田飛行場)を軍用として拡張、整備するとして強制退去を余儀なくされ、現在地に再建した歴史を持つ。
境内に入ると爽やかな風が吹いており汗で身体に張り付いたTシャツが膨らんだ。境内の奥には2020年の春に竣工した稲荷山が聳える。頂上には社が鎮座しているが階段を上がる体力が残されていなかった。再訪確定である。
穴守稲荷神社のほど近くを流れる海老取川に稲荷橋という名の橋が架かっている。名の通りかつての穴守稲荷神社に通じる参道の橋であったという。訪問時は防潮堤補強工事の拠点となっていた。橋の先は行き止まりになっておりどこか寂しい雰囲気であった。
2.天空橋と駅前地蔵尊
稲荷橋から海老取川沿いを歩くと天空橋という人道橋がある。かつて橋の近くには京浜急行電鉄の羽田空港駅が存在していた。しかし空港線の羽田駅(現天空橋駅)延伸により駅は廃止、駅跡は住宅と駐車場になっている。この天空橋はかつて旧羽田空港駅を利用していた近隣住民の羽田駅への通路として架けられたものだという。
この天空橋の近くには駅前地蔵尊という地蔵尊がある。その名の通りかつては旧羽田空港駅前にあり、延伸工事開始頃に現在の場所に移されたとされる。当時とは場所は違えども、この近辺に京浜急行電鉄の駅があったことを今に伝えている。
3.大鳥居と旧三町顕彰の碑
海老取川沿いを河口方面に歩き、弁天橋あたりで対岸に赤い大鳥居が見えてくる。この大鳥居はかつて羽田穴守町にあった穴守稲荷神社のものであり、強制退去後は空港駐車場に残されていた。その後、新滑走路建設に伴い現在の場所に移されたという。
社殿もない交差点近くの土地に大鳥居だけがあるのは不思議な光景であった。到着後間もなくジェット機の音がしたので空を見上げると日本航空機が離陸していた。
鳥居をあとにし東京モノレールの天空橋駅に向かう。駅の近くにはかつて羽田空港旧B滑走路が存在していたが沖合展開計画により移転、その跡地に羽田イノベーションシティという複合施設が2020年7月3日に先行開業した。ちょうど訪問日(2020年9月18日)が本開業日であったらしく賑わいを見せていた。
この複合施設前の広場に「旧三町顕彰の碑」がある。戦後、GHQによる48時間以内の強制退去を余儀なくされた干拓地域(鈴木新田)の羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町を今に伝える碑になっている。案内板には戦前観光地として賑わっていた様子や当時の住民の方の証言が記されていた。
突如として日常が奪われた歴史を感じ心苦しくなった。碑の真上を飛行機がひっきりなしに離陸していた。
2時間半の散策を終え天空橋駅から浜松町駅へ戻る。ちなみに天空橋駅から昭和島駅までモノレールでたったの4分であった。
空港までは歩かない(終)
空港までは歩かない 前編
2020年9月18日に東京モノレールの昭和島駅から天空橋駅の区間を徒歩で巡った。今回はその記録の前編である。
1.モノレール浜松町駅から昭和島駅へ
起点は浜松町駅。ここから東京モノレールに乗車し昭和島駅を目指す。実は東京モノレール浜松町駅の正式名は「モノレール浜松町駅」らしい。""浜松町駅""はJRだろうがモノレールだろうが""浜松町駅""だと思っていたので驚いた。(正直そこまで驚いてはいない)
JR浜松町駅の改札を抜けモノレール浜松町駅のホームへ上がる。平日の昼間にしては人が多く感じられた。どうやら羽田空港第3ターミナル駅までノンストップで走る空港快速を待っているようだった。私が目指す昭和島駅は空港快速も区間快速も停まらない。この列車には用無しである。
結局この空港快速と次発の区間快速を見送った。京浜急行電鉄や各社空港リムジンバスと競合している東京モノレールにとって空港までのアクセスが最も重要なのであろう。10分ほど待って各駅に停車する普通羽田空港第2ターミナル行きが来た。そのころにはホームにいる人は疎らになり、普通の車内も閑散としていた。
モノレールは11分で昭和島駅に到着した。下車したのは私を含め4人ほど。ホームからはモノレールの車両基地である東京モノレール昭和島総合センターが見える。昼下がりの静寂の中、爆音を轟かせて高速で通過する後続の空港快速。どこか寂しい雰囲気の駅であった。目的はモノレールじゃない。ここが(昭和島駅)がスタート地点である。
2.昭和島から大森を目指す
改札を抜けると首都高速1号羽田線が目に飛び込んでくる。駅前にはコンビニすらない。昭和島駅がある大田区昭和島の人口は0人、周囲は工業地帯になっている。
羽田線の下をくぐり大森東避難橋へ向かう。この橋を渡ると大田区大森に入る。案内板によると大森東避難橋は1972年に昭和島への仮設道路として建設されたのち歩道橋として整備されたものであるらしい。愛称は見晴らしばし、その名の通り見晴らしは良く大森方面を望むことができる。残暑の熱風と羽田線の騒音を全身に浴びて橋を渡った。
3.森ケ崎公園展望台と羽田可動橋
大森に入り森ケ崎公園を目指す。大汗をかきながら昭和島から25分かけてたどり着いた。この森ケ崎公園は森ケ崎水再生センターの屋上に設置されており、羽田空港を望むことができる展望台も存在している。展望台からの眺めは良く、羽田空港から離陸する飛行機も見ることができるのでおすすめである。
森ケ崎公園のほど近くには休止状態の架道橋がある。1994年に湾岸線(空港中央入口~大黒JCT)が開業する以前、羽田トンネル付近の渋滞は深刻であり、それを解消するための迂回路として1990年に開通した。その後は湾岸線の開通に伴う渋滞の緩和などもあり1998年からは休止状態になっている。国内では珍しい旋回式の架道橋である。
静寂の中、旋回部が開いたままで放置されている可動橋の様子は「シュール」であった。間近で見るとどこか不気味であり、額の汗が引いていく感覚がした。
旋回部から本線との合流部まで高架が伸びており、高速道路でおなじみの緑看板が存在している。よく見ると最近の仕様と思われるものに更新されていた。今後使用されることを踏まえて新しくしたのであろうか。
前編はここまで。後編は近日公開したいと思う。
このオタク、今更ブログをやるらしい.......
Twitterでも別にいいんですが、お出かけ先のことをブログでまとめるのも面白いんじゃないか?とふと思い開設しました。(思い立ったが吉日やらなんやら)
文才もネタも無いですがブログ名にあるように自分用の「備忘録」でもあるので......気の向くまま公開していきたいと思っています。